1953年
(昭和28年) |
アサヒキャンプ創設
5月24日、アサヒキャンプ開所式を、大阪府と奈良県の境界にある生駒山で行った。自然の中での野外生活を通して、青少年の健全な育成とグループ活動の場を提供しようと始めた「アサヒ生駒山キャンプセンター」。
指導者(カウンセラー)の常駐する、一般に開放された非形式的な教育組織キャンプは、アサヒキャンプが日本で唯一の最初のもの。
キャンプ場は、生駒山上の北半分の約30万平方メートル、標高642メートル。翌年には、第2・第3キャンプ場を開設し、定員も120人となった。同年、神戸YMCAと共催で、日本で最初の小児マヒ療育キャンプを、香川
県・余島神戸YMCAキャンプ場で行い注目を集めた。 |
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1957年
(昭和32年) |
盲児キャンプ実施
アサヒキャンプ場で最初の心身障害児キャンプ「目の不自由な子のキャンプ」を2泊3日で実施した。本格的な盲児キャンプは日本で初めて。参考資料がほとんどないなかで、盲児の心理、生活などを勉強し、点字のキャンプソング集を作った。 |
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1959年
(昭和34年) |
志摩キャンプ開設
青少年のキャンプ活動がますます盛んになるとともに、定員を上回る申し込みがあるようになる。青少年をよりたくましく育てるために、海洋キャンプを取り入れることにした。三重県英虞湾にある多徳島(国有地)は、海の自然環境に恵まれ、キャンプ場としての立地条件は最高である。このような見地から、この年、「アサヒ志摩キャンプセンター」を、多徳島(約四万平方メートル)に開設。
海洋プログラムが中心となるため、宿泊施設は木造キャビンとした。定員は100人。キャビン5棟、食堂テント、医務キャビン、スタッフ用キャビンやボート、ヨットなどの設備なども完備した。
肢体不自由児キャンプ実施
志摩キャンプセンター開設したのを機会に、前年まで香川県・余島キャンプ場で本団と神戸YMCAと共催で実施していたこのキャンプを本団カウンセラーによって行った。
伊勢湾台風襲う
9月26日、伊勢湾台風が志摩地方を直撃した。アサヒ志摩キャンプセンターは開設1年目の建てたばかりのキャビンの屋根や側壁が飛び、備品も散らばり、水浸しになった。また島の海岸の石垣はほとんど崩れ、海岸線の松は一本残らず倒れてしまった。
生駒キャンプ場を縮小
生駒3サイトのうち、第1、第2サイトが生駒ドライブウエーの完成とともに駐車場となり、第3サイトのみに縮小。定員も260人から200人に減少した。事務所(約33平方メートル)を新設、医務室も併設した。 |
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1960年
(昭和35年) |
生駒キャンプ場全面移設

生駒山頂一帯は、自動車道路が開通以後、青少年の健全なキャンプ場としての環境が急速に、そこなわれてきたため、山頂より北方へ約3キロメートル下がった「生駒高原」に新しいキャンプ場を開拓、全面的に移設した。同時に、障害児キャンプを本格的に取り組んで行くために、テントシステムをやめ、キャビンを7棟建設した。
また、開設当時から使用していたセンターホールをも移設し、オフィス、調理室なども建設した。
知的障害児キャンプ実施
日本で初めての、知的障害の子どもたちだけのキャンプを2泊3日で生駒山で実施。家でも学校でも歌をうたわなかったIQ50の言語障害の少年が「大きなクリの木の下で」を動作をまじえ、くり返し歌っていた。「夜尿をしますから」と親から言われていた子がとうとう最後まで、もらさなかった。 |
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1961年
(昭和36年) |
ぜんそく児療育キャンプ実施
経済の高度成長にともなって、空気が汚染され、小児ぜんそくが増加する傾向の中で、同じ症状をもつ子どもたちでグループ生活することは、治療に大きな効果が期待され、アサヒ志摩キャンプセンターで、日本医療社会事業協会にスーパーバイズを依頼し、4泊5日で世界でも例を見ない、小児ぜんそく療育キャンプを実施した。わが国で初めて、学会で発表し注目された。 |
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1965年
(昭和40年) |
生駒キャンプ場閉鎖
生駒山の夏は山上遊園地で毎夜、納涼大会が開かれるため、その騒音と、おもしろ半分にキャンプ場に入ってくる若者たちに、スタッフは夜中まで寝ることができない状態が続いた。このため、何回も移動しながら開設してきたが、やむなく12年間の幕をおろした。 |
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1966年
(昭和41年) |
メーンホール建設
全勢力をアサヒ志摩キャンプセンターに力をそそいで実施しているが、このキャンプ場には大きな集会用の建物がなかったため、雨天でのプログラム用と緊急避難用に、念願のメーンホール(約160平方メートル)を建設した。これは、生駒山キャンプ場から移設したもので、建物を通して、創設以来の精神をいつまでも忘れないようにという願いも込められている。 |
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1969年
(昭和44年) |
カッターを購入
志摩キャンプでは、これまでヨット、ボート、カヌーなどの船をプログラムに使っていたが、1グループ約8人のキャンパーが、担当カウンセラーと一緒に全員で乗れ、力を合わせて操船できるカッターは、グループ作りや協調性を育てるためにも役立つものです。本格的な正式のカッターを少年用に縮小した、11人乗り、7メートルカッターを1隻新造した。
サリドマイド児キャンプ実施
近畿地方に住むサリドマイド児が、一同に会し、「グループ生活を通してお互いが友達になり、今後励ましあってゆこう。また、自然の中で、伸び伸びとキャンプの楽しさを味わおう」という目的で実施した。小学4年〜6年生の男子15人、女子9人の24人が参加。日ごろ過保護になりがちな子どもたちが、底ぬけに明るく伸び伸びと、何でも自分でやろうとしている姿が見られ、5日間いつも笑いがあふれていた。 |



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1976年
(昭和51年) |
アサヒキャンプ朽木村開設
経済の高度成長時代が終わり、その結果として自然破壊や公害による汚染が社会問題となった。そこで、朝日新聞社は、自然保護や自然の中での環境教育を進めるため、滋賀県湖西の朽木村にある、社有地内に創刊百年記念の「朝日の森」づくりに着手、その先達として「アサヒキャンプ朽木村」を開設した。この年は、朝日新聞社が主催し本団が運営を委託され担当する。 |
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1977年
(昭和52年) |
アサヒキャンプ朽木村を主管
アサヒキャンプ朽木村を主管・運営 今年ら、アサヒキャンプ朽木村を本団が主管・運営することになり、生駒キャンプ場を閉鎖以来、12年ぶりの山のキャンプ場。カウンセラー勉強会では、夏の開設に備えて山のプログラムや付近の地理の把握、安全や健康管理について真剣に研修、討議された。朽木キャンプでは、志摩キャンプのような"グループカウンセラーシステム"ではなく、利用団体・グループの指導者とプログラムの相談や助言をし、必要に応じてプログラム指導にあたる"プログラムリーダーシステム"を採用することにした。前年の経験を生かし、主管・運営を引き継いだ本団の責任で、施設、設備の拡充に取り組み、プログラムシェルター新設(荒天時の避難場所を兼ねる)、給水設備の改善(簡易上水道方式)、避雷針の設置(サイト内8ケ所)、スタッフルームの新設(キャンプカウンセラー宿泊所)、マキ小屋の新設、大型冷蔵庫の設置(キャンパー用)、ジープを配置(緊急連絡用)、その他プログラム備品などをそろえ、安全で楽しいキャンプが出来るように準備した。
今年から再び海の「アサヒ志摩キャンプセンター」と山の「アサヒキャンプ朽木村」を運営することになった。
アサヒキャンプ創設25年を迎える
生駒山上で産声をあげて以来、4半世紀を迎え、青少年のためにボランティアで活躍してくれたアサヒキャンプカウンセラーは、25年間でOB、現役を合わせ318人に達した。
1978年(昭和53年)情緒障害児キャンプに取り組む 新しい特別キャンプとして、多動性の子や緘黙(かんもく)症児、登校拒否児らの情緒障害児を対象とするキャンプを実施した。グループに入ってゆこうという意思そのものを持たない子どもたち。担当カウンセラーは、自分の担当したグループの子どもたち一人ひとりの家を訪問し、まず子どもの家庭に入って親密感をつけることから始めなければならなかった。キャンプ場でも、多動性の子にはグループカウンセラーとは別に、パーソナルカウンセラーがつき、これまでの特別キャンプでは、なかったことだ。アサヒキャンプが、数年前から取り組まなければいけないと考えていた、いま最も必要とするであろう対象児のキャンプ。これは最もむずかしいキャンプでもあった。 |

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1980年
(昭和55年) |
低学年児もキャンプの機会を アサヒキャンプでは、特別な対象や家族キャンプをのぞき、ほとんどのギャンプは小学5年生以上の子どもたちを対象にしていた。だが、低学年児にもキャンプの可能性があるのではと、小学1年生から4年生まで80人を対象に、4泊5日で「わんぱくキャンプ」を始めた。参加希望者は600人、7倍強の申し込みがあり、関係者を驚かせた。
アサヒキャンプの運営は、大学生のアサヒキャンプカウンセラーの手によってなされていたが、この年の「障害児ファミリーキャンプ」から、高校生ボランティアを公募、各グループの中にはいって、カウンセラーを助けてキャンプの運営に加わった。
1982年(昭和57年)創立30年を迎えたアサヒキャンプ これまでの30年間で、利用者延数307,636人。このキャンプ利用者とともに生活しボランティアとして奉仕指導したキャンプカウンセラーのOB・OGと現役を合わせると、401人になった。そして、アサヒキャンプ30年を記念して、OB・OG342人が「アサヒキャンプ・クラブ」を創設した。
また、30年を節目として一層充実したキャンプをするために、7月13日から31日間、佐野信三キャンプ長をアメリカ、ニュージャージー州・ペンシルバニア州・ニューヨーク州の各キャンプ場視察のため派遣した。 |


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1983年
(昭和58年) |
創立30年を記念してカウンセラーOBが献金した一部を費用にあてて、姫路市仁豊野難民センターのベトナムの子ども18人をアサヒ志摩キャンプセンターに招待し、新しい社会福祉の取り組みとして、日本の子どもたちとともに生活し、日本の生活適応と定住のためのキャンプを実施した。
同じく1985年(昭和60年)には、「杉の子キャンプ」カウンセラーOBの子どもたちによる、ハンセン病療養所(沖縄愛楽園)を訪問しワークキャンプを実施。 |
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1988年
(昭和63年) |
アサヒキャンプ朽木村にシャワー棟新設
アサヒキャンプ朽木村は、毎年開設にあたって「季節的簡易旅館」の申請を今津保健所に提出していたが、保健所の指導もあり、温水式シャワー棟8室(内車いす用2室)を新設した。 |
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1989年
(平成元年) |
アサヒ志摩キャンプセンター31年の歴史に幕
1959年(昭和34年)に開設したアサヒ志摩キャンプセンターは、今年の夏を最後に幕をとじた。この間利用者は延べ10万人を超え、キャンプカウンセラー、キャンプナース、キャンプダイエットなど汗を流したボランティア学生は400人を数えた。 |
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1990年
(平成2年) |
「アサヒキャンプ朽木村」に一本化
今年からアサヒキャンプは朽木キャンプで一本化した。海のプログラムを無くすのは我々主催者にとっても残念であり、子どもたちも同じ思いをしているのではないか。運営面では、昨年まで海と山に別れて活動していたキャンプカウンセラーが、力を合わせて山で汗を流す。特に海でやって来た人たちもアサヒキャンプを去ることなく、区切りの年を頑張った。夏のチャレンジキャンプでは琵琶湖でカヌープログラムを実施。施設面では、一本化に伴いスタッフ棟の拡張、ゲスト・キャンプ長棟の新設、スタッフ用風呂の新設など、現役カウンセラー45人の活動・生活スペースを確保。 |
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1992年
(平成4年) |
アサヒキャンプ創立40年を迎える
生駒キャンプ場から志摩キャンプ場へそしてアサヒキャンプ朽木村へとキャンプセンターが移り、その間アサヒキャンプの利用者は、延べ37万人にたっした。8月1日(土)アサヒキャンプ朽木村で、創立40年を記念行事として、カウンセラーOB・OGとご家族の招待キャンプ(1泊2日)を実施した。当日は、47ファミリー・139人が参加しグラウンドのセンターボール前に集合し、「アサヒキャンプのうた」で旗あげを行った。翌日は、40年記念感謝デーとして、当日参加の新しいメンバーが加わり、200人を超える入村式となった。午後1時から、グラウンドで昼食会、暑い日差しを避けながら懐かしげな挨拶が飛び交う和やかな昼食会が進み、最後は、今日のために準備し、OBが徹夜で仕上げた「ようこそアサヒキャンプ朽木村へ」とイラスト入りの大看板(縦60m×横4m)が、記念ゲートに吊り上げられた。
学習障害児の「LD児」のキャンプ実施
学習障害児(LD児)小学5〜中学生を対象に3泊4日で「森の子キャンプ」を実施。一般的な障害のレベルから言えば、多分軽度な部類に入るだろう。いままで障害児扱いにはならず、といって一般のクラスでは落ちこぼれがちな彼らは、成長とともに二次障害による格差が顕著になる傾向にある。近年、この分野の研究が進み、対処法も研究されてきた。方法は手さぐりながら彼らが伸びのびとキャンプ出来るように取り組んだ。 |
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1995年
(平成7年) |
アサヒキャンプOB・現役、阪神大震災で救援活動
1月17日未明の大惨事の発生後、ただちに「朝日ボランティア基地」を設置し、救援活動を開始、事務所の床に寝袋にくるまって泊り込み、物資の供給やボランティアのコーディネートなど、被災者と市民をつなぐ活動を展開。この「朝日ボランティア基地」に次々とOB・現役のカウンセラーが集結し、自分の生活を自分で確保する知恵と技術、素早い決断力、たくさんの人をまとめていくリーダーシップやコーディネートの力、新しい救援活動を形にしていく創造力、どれをとってもキャンプ人間の素晴らしさをまざまざと見せつけるものだった。また、3月下旬から5月上旬にかけて、本団とYMCAや大阪府青少年活動財団などの阪神間の青少年育成団体13団体が協力して実施した12のキャンプに1千人以上の被災児が参加した。
8月22日〜26日被災児のための少年少女キャンプ実施 関西テレビ青少年育成事業団の協力を得て、高学年(小学4年〜6年)は、アサヒキャンプ朽木村で4泊5日。低学年(小学1年〜3年)は、朝日の森・自然研修所で2泊3日で実施した。 |
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1996年
(平成8年) |
大きな影響を与えた「病原性大腸菌〇−157」 大阪周辺では、キャンプ場の閉鎖やキャンプの縮小など、学校のプールや市民プールの閉鎖が続くなか、本団でも対策会議を開き安全対策をはかる。対策として、サブキャンプ長と管理栄養士の常駐。自炊・洗い場、トイレに薬用石鹸と消毒液の設置。・食材・メニューの見直し(加熱調理を原則)。食器類・包丁・まな板の加熱消毒など8項目にわたり実施した。特に、食器類の消毒には、食器消毒庫(80度で加熱)をフル稼動させ、スタッフの負担が大きかった。この夏、9つの主催キャンプと一般キャンプ合わせて延べ1,401人が無事にキャンプを終えた。 |
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1997年
(平成9年) |
創立45年を迎える
利用者の数も、延べ379,545人に達する。朽木村だけでも、1977年以来20周年が経過、その間延べ110,310人が利用した。創立以来のキャンプカウンセラーOB・OGの数は523人。台風の影響でキャンプ場での記念キャンプは中止だったが、11月3日に、大阪YMCAで行われたアサヒキャンプ・クラブ総会では150人余りが旧交をあたためた。
自閉症児者が主体的にキャンプを取り組むために 自閉症の余暇活動という大きな枠で捉え直す「アクティビティーキャンプ」を実施。主体的に自閉症児がプログラムに取り組めるよう、少人数制にし、TEACCHの療育法を取り入れて行った。 |
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1998年
(平成10年) |
小・中学生に朽木の四季体験
1984年から5年間過去に実施した「森の生活」を再開。「あおぞらくらぶ」として5月にスタート。小学5年生から中学生まで22人が参加した。 |
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1999年
(平成11年) |
比良山系縦走キャンプ (8月9日〜13日・4泊5日)
これまで行ってきた長距離徒歩移動型の中学高校生対象の夏のキャンプから新たな方法を模索、比良山系の15時間縦走や単独で山林で一夜を過ごすソロプログラムを実施した。中学生9人、高校生6人の15人が参加。
不登校児のためのキャンプを朽木で実施
1、2年目は神戸YMCA余島野外活動センターで、3年目は不登校児のためのキャンプを朽木で実施した。近大附属病院精神神経科の子どもグループに呼びかけ、8月21日から27日まで、前半、後半、全期間の3期間に分けて、小学4年から高校生まで14人が参加して行われた。運営には桃山学院大の郭麗月教授(精神科医)らのスーパーバイズを受けながら3人のキャンプカウンセラーが担当した。参加者が主体的に参加することがねらいで、このキャンプの一貫したルールは、事前に何も決めないことだ。起きたい時に起き、寝たい時に寝るという徹底さだった。 |
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2001年
(平成13年) |
アサヒキャンプ朽木村を閉鎖
25年にわたり、障害児や家族、青少年の活動の場であったアサヒキャンプ朽木村を今期終了後、秋に閉鎖撤収した。この不況下、キャンプ場の維持管理が困難になったことが大きな理由。合わせてキャンプカウンセラーのOB・OGを対象に「杉の子キャンプ」を8月25日から26日の一泊で開催、158人がつどい、最後の朽木キャンプ場に別れを告げた。
来期からは、大阪府青少年活動財団が主管する大阪府能勢町の大阪府立総合青少年野外活動センターを拠点に、障害児・者を中心とするキャンプを実施する。 |
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2003年
(平成15年) |
大阪府立総合青少年野外活動センターでのキャンプを最後に52年間の事業団によるアサヒキャンプは終止符が打たれた。 |
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